イタリア買付道中記 2003
イタリア買付道中記 2003 その1
2003年4月22日。
良い鞄、服装の人多い。東京9時発の車内は寝ている人ばかり。一人緊張。
こんな風な書き出しで日記をつけました。
ちょうど、SARSの騒ぎが大きくなる前に出発する事になった私は、SARSより気にかける事がありました。
L'inizio:はじめての事ばかり
Amicizia:友情を確認しないと
何事もこの二つが頭に残りながらもガンバッテ伝えるしかないのですが、とりわけシチリアにこだわった以上
お世話になったホストファミリーとの関係が途切れてしまう事だけは何としても避けたかったのです。
ゆえに、ひたすら怖かった。
事前にメールを送るが返答が無い。
FAXを送るが返事は遅く、帰ってきた答えが、「今は忙しい」。
電話をするが、たまに話すとそうそう話せるものではない。
などの事前情報が宜しく無かった事も怖さに追い討ちをかけていたのです。
迎えに来てくれなかったらどうしようか。。。買い付けという前に、彼らに面と向かって
「新しい仕事を始めるんだ!シチリアの食べ物を日本で売るんだ!」
と言いたかったんです。そういう機会をきちんと経たかったのです。
イタリアで一番大事な人に、一番最初の大事な事をきちんと伝えてからスタートしたかったのです。
そこだけは曲げずに譲らず、きちんとしたかったのです。
ゆえに、ひたすら怖かった。
6年前より飛行機代は安くなり、直行便で飛べるようになり、多少は話せて途中の手続きは問題なく行えても
そんな事はどうでも良かった。
約16時間で到着するその場所に、あのシチリアの人たちに
「Ciao!」
と言って抱き合えるか?という只一点に、私は怯えていたのでした。
続く。
イタリア買付道中記 2003 その2
6年ぶりの再会はあまりにもあっけなく、それこそ涙して抱き合うのかと思っていたのに、
そんな風でもなく実にあっさりと
「Ciao!」
で始まったのです。
フィリッポと奥さんのサンティーナの二人で普通に迎えに来てくれたのがとても“普通”で
逆に嬉しく思いました。
フィリッポはいつのまにか違う学校の校長先生になっており、学期末の頃で業務に忙殺されていた事、
サンティーナは階段から落ちて手首を骨折していて痛々しい包帯をしながら毎日病院通いをしていた事、
等の事情が重なって、とてもじゃないけれど、急に来ると言い出した私をケアする余裕が無かったのでした。
逢って話をしてみるとこんなものなのかもしれません。
「今回は君を助けられないよ」と言っていたにもかかわらず、
「お昼頃、おいで。家でご飯を食べよう。」と次の日にはフィリッポの家に行くことができたのです。
何と言うか、こういう感じなんです。最終的にどうにかなるいうか。。。ならないときもありますが(笑)
「シチリアの食べ物を売るんだ。」と昼食の前に意気込んで説明をしたあと、
先ず日本で見つけたシチリアの会社について話をしました。
Bulla Agatina di SOLO SOLE(ブッラ・アガティーナ・ディ・ソロ・ソーレ)
長い。。。
「あー、SOLO SOLEなら知ってるよ。美味しいねぇ、あそこのは。」と続けて、
「でもねぇ、家で買っているやつの方がもっと美味しいと思うよ。」でもって、
「えーっと、名前はBulla Agatinaとかいう。。。」って、おいおい!
彼らは私の差し出した資料をろくすっぽ見もしないで話し続けたのです。
二つの会社の名前がつながっていて同じだと言う事に気が付かず。。。
「えええっっ???!!!」
嘘みたいな話ですが、ホントの話。
私が日本で見つけた美味しいトマトの会社と、フィリッポ達が地元で懇意にしている会社が同じだったなんて!
会社に電話をしてくれました。
「日本からの青年?が貴方の会社にいたく興味を持っているそうだ」
というような話でした。
事前情報で知っていたのですが、社長のフィリッポ(こちらもフィリッポ(^^;)はフィレンツェに
催事で出かけているから、代理人にあってくれないか?との事でした。
次の日にホテルで落ち合う約束をして電話を切りました。
すっかり安心してサンティーナが作ってくれた「brodo vegetale:野菜スープ」を口にしたのでした。
畑で取ってきた野菜をゆっくり煮込んでダシを取り、レンズ豆のような小さいパスタを入れ仕上げにパルミジャーノを削り
EXVオリーブオイルをたらり。。。
長旅などで疲れたカラダや胃をこれほど癒してくれる食べ物があるだろうか?
あまりにも普通に、ゆっくり、淡々とやさしく、自然に。これこそが私の愛したシチリアの食べ物だと。
あぁ、帰ってきたんだと実感したのでした。
さぁ、次の日からまた歩きます。
続く。
イタリア買付道中記 2003 その3
ビジネスの宿としてカターニアの駅の近くにホテルを取りました。
以前に何度か利用した事があるのですが、人に勧められるようなホテルじゃありませんし、何と言ってもボロイ(涙)
私のヤワな腹筋・背筋はとてもあのソフト極まりないベッドにカラダを預けるなどということは出来ない(涙)
という訳で、たんすに入っている毛布を丸めてベッドの下の“腰”が当りそうな部分に入れてしのぎます。
気休めに腹筋なんかもして“自分で快適をつくる”ようにやってみます。
それから“微調整の出来ない”水道の蛇口も慣れればオッケー♪♪なんて
ま、こんなもんでしょう。ひとり仕事で使う分には。
このホテルの支配人はイラン人。なぜかイラン人。ま、いろいろです。
広げているビジネスもいろいろあるとか何とかエラソーに自慢していました。
「 どうだ、日本の市場で売るんなら組まないか?」
「どれだけ買うんだ?」
「いつ買うんだ?」
「安く仕入れて高く売らないとナ!」
聞いても頼んでもいないのにたたみ掛けてきます。
こんな感じの人を
「furbo:フルボ」
と言います。彼はフルボだ!なんて具合に。度が凄いとフルビッシモ!という具合です。結構多いんです、イタリアには。
興味ありませんでした。そういう人。もちろんビジネスですから、奇麗事ばかりいうわけではありませんが、
生産者の情熱が伝わるような、そんな美味しい食材を探しに来たのですから。
あのドライトマトをやっている社長:フィリッポ(ホストの世話になったフィリッポとは別の人)にはそれを感じ、
期待していたのです。故に、たった一枚のFAXでしたが、それを頼ってきたのです。
フィレンツェに催事で出かけていて戻って来れず、指定する代理人に逢ってくれないかという事でしたので
その男とはホテルで会うことにしました。
rappresentante:ラプレゼンタンテと書いてあり、辞書で訳すと代理人。
実はそれが何だかイマイチわかりませんでした。
ホテルの従業員にいろいろ聞いてみると、どうやらいくつかの会社の価格表を持ち歩くブローカーのような者だと。
いろんな会社のいろんな製品を探すなら有意義だとも教えてくれたのです。
というわけで自分が探すシチリアの食材をリストアップして彼に見せました。
自分がシチリアにいた事、住んだ町、この仕事を始める事由などを述べると彼はある島の事を教えてくれました。
Favignana:ファビニャーナという島はマグロで有名なところです。
シチリアの西、塩で有名なTrapani:トラパニから高速艇で1時間。
行ってみないか?との話に一もニも無く
「Si,certo!:行くともさっ!」
と答えました。だって、ドライトマトのフィリッポには逢えないし、他に具体的に何処の誰に逢うと決まってなかったので、
それはもう、わらにもすがる気持ちでしたから。。。
こんな風にして「初めての事ばかり」を繋いでいったのです。
ドライトマトのフィリッポの会社Bulla Agatina di SOLO SOLEのサンプルをもらい、彼のデカイ手を強く握り返して
まず一歩を踏み出しました。
続く。
イタリア買付道中記 2003 その4
Trapani:トラパニはシチリア島の西。
逆三角形をしたシチリア島の地形では左端の先っぽというわかりやすい所。
シチリア島の州都パレルモからPullman:プルマンと呼ばれる中・長距離高速バスに乗って約2時間。
ここを基点にと港近くに小さい宿をとりました。
カターニアで会った“代理人”に教えてもらったFavignana:ファヴィニャーナという島はトラパニから高速艇で20分で
着いてしまいます。
この島は「マッタンツァ」と呼ばれるマグロの漁で世界的に有名です。
漁の時期は、マグロの求愛時期に合わせた5月半ばから約1ヵ月程。
いわゆる定置網を利用してマグロを呼び込み、暴れる彼らにかぎのついた棒で「ガンッ!」一撃を加え、漁師たちが
一気に引き上げるという豪快な漁です。
その伝統は千年以上続き、由緒正しい漁としてわざわざ観光客が詰め掛けるほどなのです。
ウルトラマリンの底抜けに美しい海の色を“あんぐり”と眺めつつ船着場に着くと、近くにTonnara:トンナーラと呼ばれる
マグロの加工場がありました。漁がある時は大賑わいだそうですが、行った時期は静かなたたずまい。
この島は本当に小さいので、それこそ“あっ”という間に島の目抜き広場に出る事が出来、そしてお目当ての店に
辿り着きました。
アントニオ・タンマーロという“おっさん”が経営する店に入るや否や、
「シニョール・オカーダ?!」
彼の方から声を掛けてくれました。
慌てて自己紹介し、この仕事を始めたいきさつなどを話すと彼もいろいろと話をしてくれました。
・・・というか、彼は熱い。熱く語るオトコなのでした。
ファヴィニャーナという島がどれだけマグロと関わりあいがあったか、洞窟に壁画として描かれているマグロの群れや
マグロの身の保存法、そして自分もこの仕事を始めた最初は何も無く、人が遊ぶ時もひたすら勉強したことなどなど。。。
「ア、アントニオ、あなたは一体いつ息をしているの?」
といった感じでしょうか。
続いて試食。
味の繊細な順にメカジキやマグロの様々な部分のEXVオリーブオイル漬けや塩蔵製品、ボッタルガ、塩漬けケッパーなどを試食していきます。
最初、それらを乗せるパンというかクラッカーを一緒に食べてしまった時に
「そんなもん食べたら、繊細な味がワカランだろう!!」
と怒るし、メカジキについては日本で食べる時の若干の臭いについて述べると
「なぁにぃっ?!メカジキがニオうだとぉ?!」とか怒るし。。。
怒られっぱなしでしたが、程度の良いメカジキがこれほど繊細で上品な味をしているかなど思いもしないほど驚いたのだ
と言う事を正直に述べ感想をその場で上手く述べるよりもひたすら書き込みたいという意向を告げると、マシンガンのように
喋りまくる彼は激しくそれに同意し、
「そうか、そうか、書け!書け!そういや私もそうだった!」
などと言ってはひとつひとつの製品に対して説明してくれたのです。
こんな風にして、そのままで食べてはメモを取り、トマトやバルサミコなどで一工夫加えた食べ方で試してはメモを取り
という具合でした。
「甘味と辛み、塩気のバランス、コントラストが料理を美味しくするんだ。その為の素材のクオリティが大事なんだ。」
そう言い切る、このおっさんにいろいろ教えられたような気がします。
次の予定があるからと、あまり長居できず島を去りました。
ウルトラマリンの美しい海と熱いおっさんの語り、見ながら聞きながら考えながらの真剣勝負の試食でくたくたになって
しまったのです。
続く
イタリア買付道中記 2003 その5
塩が見たい。
そう思ってTrapaniへ来たのです。
Trapani:トラパニはシチリア島の西、逆三角形をしたシチリア島の地形では左端の先っぽという
わかりやすいところです。
アフリカからの暑い風、シロッコ(Scirocco)が吹いてきて暑いの何の!何より、太陽が近い!(宮崎より近い!)
「イタリアというより地中海?!」(上手く表現できませんがこんな感じ)
Saline:サリーネと言われる塩田はトラパニから南約30kmの街、Marsala:マルサーラまでの間の沿岸に大きく2ヶ所に
渡って存在しています。その内、よりマルサーラに近い塩田が日本でも良くお目にかかるMozia:モツィアです。
行ってきましたモツィアまで!
もともと、地中海を生活の場としていたFenici:フェニキア人がこの土地と気候に目を付け塩田の基礎を築いた
(紀元前の話!) そうです。その仕組みは、
・海水(塩分3.5~4.5%)を地中海の風を利用してMulino:風車を回し
・Spira d’Archimede:アルキメデスのらせんを使い
・海岸線の最寄の塩田に引き込みます。
・風と太陽で蒸発した海水は、その濃度を増し
・隣の塩田へ移され、より濃度を増し(繰り返し)
・最終的に塩分24~26%に達するまで干上ります。
・その後、スコップで掻き出しベルトコンベヤに乗せて地上に山積されます。
・山の上に屋根(テラコッタが最良との事)を架け、一冬を越して出来上がり
というような感じです。
この仕事のサイクルは4月頃にスタートするため、真っ白な塩田を間近に見ることが出来なかったので塩田近くの
博物館に入り勉強する事にしました。
“しつこく塩田に居座り歩き回った”ので、博物館の方がビデオを見せてくれたり色々説明してくれました。
“しつこく塩田に居座り歩き回った”ので私の身体も干上ってしまったのか、(日射病?!)がんばってホテルまで
辿り着くと激しい悪寒や胃の痛みを感じ、ついにダウン。
「あー、海外旅行傷害保険のお世話になるのかなぁ~。」
なんて遠のきそうな意識の中でモウロウと考えたりしましたが、そんなことになってたまるか!と気合を
入れなおしたのです。
先ずは強引に熱いシャワーをしっかり浴びてとにかく身体を暖め、次に胃の痛みはケイレンだと認識し、体力減衰には
ブドウ糖の摂取が必要と考え、ダメ元でフロントに助けを求めるように駆け込んだのです。
「寒い、助けてくれ。動けない、もう一歩も歩けない」
と嘆願し、その時思いついていた民間療法を頼む事にしました。
以前、シチリアにいた頃、おばあちゃんに作ってもらった飲み物。
「アックア・カルダ、ペルファボーレ。。。」
必死の嘆願に、フロントで話し込んでいた一人のおっさんが
「俺がbarに行ってもらってきてやるよ。部屋に帰ってな!部屋まで持っていってやるから!」
ほどなく持ってきてくれたそれは、レモンの皮と砂糖たっぷりの暖かいお湯、アックア・カルダでした。
少しづつゆっくりと飲んだそれは身体の隅々に暖かさが染み渡るよう。
ゴルゴ13のように身動きせず、じっと身体が癒えるまでベッドに横たわる事18時間あまり・・・。
見事に復活することができました。ふうぅ。
見知らぬおっさん、どうもありがとう!
アックア・カルダに助けられ、旅を再開する事が出来たのです。
続く。
イタリア買付道中記 2003 その6
トラパニ、早朝6:30、名残惜しげにバスに乗る。
ああぁ、Erice,Marsala,Mazara...行きたいところはいっぱいあったのになぁ。
足掛け2日を要した体調回復。
ゴールデン・ウイークはイタリアでも祭日が重なり、お店が休み。
ずれまくる行程を調整するには思い切って次の場所に移動し、休日を移動にすればいい。
という判断で、大移動を試みました。
向かう先はVittoria:ヴィットリア。
その場所はRagusa:ラグーサ県に位置し、トマトをはじめとする野菜や果物の大農園があるところとしてシチリアでは
有名です。
「ヴィットリアの農園主に会わないか?」
そうRappresentante:ラプレゼンタンテ、代理人のレナートが言ってくれたので行く事にしたのです。
ところでヴィットリアと簡単に言っても、トラパニから来るのは大変です。
この移動は平たく言うと、
逆三角形をしたシチリア島の
西の端から東の端まで中央突破して
そこから南の端まで急降下
するようなもんです。
シチリア島って大きさで言えば九州と四国の間ほどなので、大きいんです!
ま、別に誰にそうしろと言われたわけではないので、ひとり無理しただけなんですが。。。
ほんの8時間バスにゆられるだけですから、ほんの8時間。。。
ほんの2回ほど時間ギリギリでバスを乗り換えるだけですから、ほんの2回。
ついでに途中の待ち時間でホテルを探して予約するだけですから。。。
でも、農園主に逢ってホントの「パキーノ」種のトマトを見たかった。
メルカートでは結構、イミテーションが出回っていてひと目で
「おいおい、それはチョット」
っていうのがありましたから。。。
日本でも有名になりつつある「パキーノ」種、イタリアではCiliegino:チリエジーノと呼ばれている身の小さな甘味の強い
(だけではない!)美味しいトマトは、ヴィットリアの近くPachino:パキーノ村が発祥だ! とかいう話、伝説、逸話、謎。。。
などがあります。
実際には多くの「パキーノ」種のトマトが栽培されているヴィットリアに行ったほうがいろいろ勉強できるだろうと想像して
いました。
が、
出発前日に農園主に電話するが、上手く話が繋がらない。
乗換のパレルモで電話するが、不在。
乗換のカターニアで電話するが、不在。
ホテルのラグーサで電話するが、不在。
ほぼ10分置きくらいに電話をしたでしょうか。。。
ようやく秘書らしき人が出て、話をすると結婚式があるとかで出かけたとか。
翌日に電話しろとケータイの番号を教えてくれましたが、気になって試しにかけてみると間違っていた事が発覚。
あわてて電話して秘書に聞きなおそうとしたのですが、すでに誰も出ない。
滝汗ダクダク、痩せそうでした(^^;
遠路はるばる、わざわざ8時間もかけて、ホテルまで予約してきたのに逢えないのだろうか。。。
翌日は祭日なので何としても連絡をとっておきたかったのですが、何度電話してもだめ。。。
結局、“翌日の約束”は果たされずに私はその町をあとにしたのです。
「ぬぉ~っ!」
と叫びたいところでしたが、それもせず件の“代理人”レナートに逢う事になっていたカターニアの駅まで戻りました。
約束時間は午後1時。
駅から彼のケータイに電話をかけること30分おき。
彼が駅に来たのは夜7時。
「いい加減にしろ~!」
と怒る暇もなく遅れた彼は、大して悪びれもせず
祭日のバカンスで渋滞がひどかった事、
いっしょに出かけた家族の具合が悪い事、etc
を理由に早々に引き上げたのです。
「Ciao!」
ですと。。。
この日は5月1日。プリモ・マッジョといい、メーデーです。
全てのイタリア人は全ての仕事を忘れ、全てをリセットするかのよう。。。
前日夕方から始まる、その思考モードはDNAの為せるワザでしょうか。
続く。
イタリア買付道中記 2003 その7
悪夢のような5月1日:プリモ・マッジョ。私はただ泣いただけだったのか?
いえいえ、ここまで来て「ただじゃあ、帰らないぞ!」と思っていた私はラグーサのホテルで作戦変更!?
していたのです。
Modica:モディカはシチリアで「お菓子の街」として有名なところです。
ラグーサから路線バスで50分ほど揺られながら、一山越えるとモディカに辿り着きます。
小さい街。山の斜面に立ち揃う街並みはどこか落ち着いていました。
着いた瞬間、その雰囲気に魅入られてしまったようです。
実は、このあたりは旧モディカ伯爵領だったところで書物によると
・彼のもと、シチリアの他の場所とは異なり独立した政府や法律があって
・豊富な農作物や家畜などの食物も充実していた比較的裕福な場所だった
ようです。
“平和、親切、整然”等々モディカの街を表現する言葉の数々はこんなところからきているのかもしれません。
その街で一軒、訊ねてみようと思っていたお菓子屋さんがありました。
この美しいバロックの街の目抜き通りCorso umberto 1:コルソ・ウンベルト一世大通りよりほんの少し入ったところに
そのお菓子屋さんはあります。
Antica Dolceria Bonajuto:アンティカ・ドルチェリア・ボナイユート
店内はシックで歴史を感じる調度品。
店にたつ女性は“キリッ”と凛々しく。
ナントモ気後れしそうな雰囲気でしたが、勇気を出して先ずは自己紹介から始めました。そして、
・Bonajutoの“j”がイタリア語ではない事、
・土地柄、スペインの影響があったであろう事、
・原住民のシカン人、シクリ人の末裔の関係、
等々、私がシチリアで暮らしていた時に学んだ事などを、思いつくまま口にしてみたのです。
もちろん、その中には私の知識が及ばない事や間違っている事もあったと思いますが、何よりこの店に興味を持ち、
敬意を払っている事を伝えたかったのです。
すると“キリッ”とした女性は、丁寧に店の歴史やチョコレートの話を聞かせてくれた上に、どんどんと試食までさせて
くれたのです。
他のお客さんが来ている時は、試食の品を手に店内見学。
お客さんが帰ると話の続き・・・みたいな。。。
しまいには、
「じゃあ、工房見てく?」
なんてことになり、売り場奥の工房まで見せてくれてました。
これほどの歴史のあるPasticceria:パスティチェリアなのに何てフランクなんだろうかと感心してしまいました。
閉店時間近くになり、店を後にする時は先の“キリッ”とした女性と工房の皆が挨拶をしてくれてとても心地良い思いでした。
プリモ・マッジョで相当へこみそうになっていた私。
気を取り直してちょっと足を伸ばしてみたモディカ。
思わず見つけたキラ星のようなシチリアの宝石。
私は一瞬で惹き付けられてしまいました。
「シチリアの薫りがする」
そう感じました。
その時買ったチョコレートは、少しずつ知人の間で試食してもらい、今や私の目の前に、その数を増やして出番を
待っています。
山を越えてホテルのあるラグーサまで戻る途中、ラグーサ・イブラのライトアップされた美しい街並みをバスの車窓から
眺めながら、緊張ばかりのシチリアの旅が何だか少し軽やかな、少し艶やかなそんな風に変わった気がしました。
続く。
イタリア買付道中記 2003 その8
Modica:モディカの感動に「ジ~ン」
ときていたのですが翌日の予定を全て“適当にすっぽかされた”話は
前号の買い付け道中記でクドイほど書いてしまいました。
泣く泣く、フィリッポ(ステイ先のお父さん)に迎えにきてもらい、
なつかしのMotta:モッタに戻ったのですが、帰る途中、彼は
「そうか、そうか、そりゃあ大変だったなぁ。」
「けれど、君はまだまだシチリアーノってものを解ってないんだから!」
と慰めるどころか逆に説教されてしまいました。
イタリアーノ(イタリア人)というよりシチリアーノ(シチリア人)
シチリアーノというよりモッテーゼ(モッタの住人)
の彼ならではの発言なので、逆に妙に納得して
「そうだね~。ちょっと私はジャッポネーゼ過ぎたかな。」
むかつき、落胆していた私の気持ちはこんな風にして見事にほぐれてしまったようでした。
家に着くと、そこに待っていたのは暖かい食卓。
これでもか!というくらいのマンマの手料理。
・・・食べましたね~!お腹がどうにかなるかと思うくらいに!
だって、途中はホントに試食、メモ、試食、メモって感じでゆっくりと食事
などという感じではなかったんで、要するに飢えていたんです(涙)
あっという間にジーンズがゆるゆる(^^;
でもねぇ、美味しかったんですよ。これが。。。
・イワシのトマトソース
・カルチョーフィ・アロスティーティ(アーティーチョークを焼いたもの)
・イワシのベッカフィーコ
・プロシュット
・ペコリーノ・シチリアーノチーズ
・茹でタコとフィノッキのサラダ
・地元のワイン
・自分の畑のアランチャ・ロッサ
・ティラミス(“ス~”にアクセントがポイント^^)
何気に平らげた品々。
美味しい品々。
・・・たまりません(感涙)
「E' buono questo piatto!:美味しいね、このお皿(お料理)」
などと言ってお料理を褒めたりしますが、たくさん美味しいお皿(お料理)
があるんで“お皿:piatto”の複数形にして“piatti:ピアッティ”だなぁなどと思いふけっておりました。
これが私のシチリアを表す言葉だと思い、「PIATTI」にしたのです^^。
・・・脱線してしまいあとの話が続かなくなりそうなので、この辺で(^^
続く。
イタリア買付道中記 2003 その9
「パキーノ・トマトのタネはイスラエルから来たって知ってる?見に行く?」
パキーノ・トマトの農園を見ることが出来なかったと悔しがる私の事を友人のロベルトが聞きつけて
言ってくれたのでした。
「実は僕の友人(グラッツィエラ)がその会社で働いているんだ!だから行く?」
エトナ山の中腹にあるその会社に一歩入ると 「トマト!トマト!トマト!」 の写真広告、カタログの山!山!山!
でした。
まさか、そういう会社に行く事が出来るなんて思っても見なかったのでひたすら圧倒されながら、言われるまま社屋の
奥のほうまで進むと大きな机を占領する女性に出会いました。
6年前は楽しく遊んだ大学生だったグラッツィエラは、今や立派なキャリアウーマンに成長していたのでした。
私がこの仕事を始めた経緯などを話すと彼女は
「そういう仕事するんだったら、ウチにあるカタログ全部持って帰って日本でしっかり勉強なさいよ!」
と言って、どっさりカタログとそれを入れる鞄までくれたのでした!
タネの会社なので、当然取引する会社は農園などの“生産のプロ”なワケでして、書いてある事はもう私の持っている
“伊和辞典”のボキャブラリーを越えてしまっているのです(^^;
が、頑張って読んでみると、
・このタネの生れはHazera:ハゼーラというイスラエルの町で
・この町の土壌や気候条件などをつぶさに書き記してあり
・いろんな種類のタネの比較を表やグラフで見ることが出来ました。
日本で取り上げられたとこのある“Naomi:ナオミ”という種類は日本的な名前でもあり、印象的で、かつ今でも
パキーノ・トマトでも重要な位置付けである事は確かなようです。(実際は日本の名前とは関係ありません)
“ナオミ”を研究して様々に改良したり、やっぱり“ナオミ”に戻ったりとかいろんな“熱い闘い?!”が繰り広げられている
ようです。
でもやっぱり重要なのは、土壌や気候条件なのだと。。。
自分の扱うトマトがどんなモノなのかを知りたかっただけ、から始まった事が予想外に展開したというお話でした。
続く。
イタリア買付道中記 2003 その10
「フィリッポ、オレンジちょっとで良いから持って帰りたい!」
「いいともさ!じゃ、畑行くか!」
という事で取りに行きました♪♪
この辺りは日本でも有名な“ブラッド・オレンジ”が良く取れるところです。
トマトジュースじゃないかと思うくらい真っ赤なオレンジ。
とっても濃い味のする美味しいオレンジ。
「はぁ~、タマラン。。。」
あまりにも当たり前にあるのですが、ど~にも美味い!ということで、ちょっとお土産用に少し持ち帰ることに
したのです。
買い付けではありません。というのも、生のブラッドオレンジはまだ輸入解禁になっていないのです。
残念ですが、決まりですからね。
というわけで行ったオレンジ畑にはオレンジはたくさんありましたが肝心のブラッドオレンジは実っていませんでした。
だいたい2月頃熟すので、この時期にはZagara:ザァガラ(“ザァ”にアクセント^^)という白く咲く花の状態でした。
食卓にのぼるブラッドオレンジは冬にとっておいたもので、ほっといてもあまりカビたりしないのは、やっぱり
乾燥しているからだと思います。
日本と大きく違うところのひとつですね。
さてオレンジ畑は熟す時期の違うオレンジでいつも何かしらオレンジが実っていますから、それをもぎ取る事にしました。
フィリッポ曰く、
「あんまり美味くないけど、これでいいか?」
って差し出してくれたモノは、それでも美味しかったのです。
畑に行って自分たちでもぎ取る事で気分が良かっただけなのかもしれませんがそれでも、やっぱり美味しい。。。でも。。
「このみかん箱は何?」
「何って、ちょっとって言うから小さいやつにしたんだけど、小さい?」
っておいおい(^^;
20Kgは悠にあると思えるボリューム!どないして持って帰れっちゅうねん!!!
「この前、ロンドンの友人に空港から送ったら何の問題も無かったよ。」
とか何とか。。。はぁ~日本はヨーロッパじゃなかですたいっ!頑丈に木組みされたりっぱなみかん箱。
どうやって持って帰ろうか。。。
続く。